復活マイテ492


マイテ492は昭和35年5月31日に客車特急が全廃され、151系電車特急にその任を譲り、以後特急の展望車として活躍することなく博物館入りしてました。

JR発足と同時に奇跡的に車籍が復活、以来20年にわたりSLやまぐち号や団臨の展望車として活躍しているのは旧知の事と思います。

50年も前に見た展望車は私にとって憧れの存在でしたが、なにぶん乗ったことが無いので《講釈士見て来たように物を言い》となってしまい、展望車のことをあれやこれや講釈するのも少々気が引けており、これは是非とも一度体験乗車をして自分の実体験を記そうと考えていました。

平成20年8月23日、やっとその時が来ました。
乗車1ヶ月と1日前に1レと同時に予約を入れたところ、幸運にも座席が確保できました。

復活マイテ492については既に多くの方が紹介されており殆どについては広く知られていると思いますが、今回は私なりの乗車体験を述べたいと思います。


特急 つばめ 回送



津和野に到着後機関車を入れ替え引込み線で出発を待つやまぐち号
さて、復活マイテ乗車記の前に、1987年 車籍復活に際しての秘話をご紹介したいと思います。

相互リンクでお世話になっているこうさん、元国鉄高砂工場に勤務されていらしたお方より貴重な

お写真とお話をご提供いただきましたのでご紹介させていただきます。

ご覧いただきます画像は交通科学博物館に保存されていたマイテ492が車籍復活に際し鷹取

工場で修理されている風景です。
マイテ492 鷹取工場O氏撮影
こうさんが高砂工場にお勤めになっている頃、交通科学博物館に展示されている旧客の定期

整備があったそうです。

それは毎年の鉄道記念日の前の休館日に何回か分けて行われたそうですが、その頃すでに痛み

が激しく機材等の関係でとても現場で修理できる状態ではなかったようです。

そうこうしているうちに車籍復活が決定し、高取工場で修理が始まったそうです。

いざ、修理が始まれば痛みは激しく床部分はすべて交換するほどの大修理であったようです。

住宅で言えばフローリングを支える根太(ネダと読みます)が腐食、そして根太受けも腐っていた

とのことです。

詳細についてはこうさんより許可をいただきブログより転記させていただきましたので参考にして

いただきたいと思います。

 昭和30年7月23日 高槻駅通過中のマイテ49 たーサン撮影
僕は小学校のほとんどを大阪ですごした。
特に小学校4年までは途中一時的に転校はあっても、大阪・港区の築港小学校に通学していた。
住んでいたところは今、天保山の観光地となっているあたりだ。

僕が鉄道を好きなものだから、父親はよく、すぐ近くの弁天町、交通科学館に連れて行ってくれたものだ。
SLと言われても普段、蒸気機関車など目にすることのない都会暮らし・・
今のようにディーゼル機関車が保存されているわけでもない交通科学館の展示車両は僕にとっては遠い国の
夢の車両ばかりだった。
唯一、101系電車の実物大の前頭部の模型があり、これに親近感を覚えた。

その交通科学館で当時、必ず中に入って遊んだのが展望車・・マイテ492だ。
当時は、一緒に展示されている寝台車や食堂車も含め出入りは自由で、父親の写真を撮ってもらったものだ。

この展望車は昭和13年の製造で、戦前は「富士」、戦後は「はと」に使われていた車両だ。
本当は2重屋根構造のマイテ39あたりが保存されればムードもまた違ったのだろうが、当時の国鉄は今の
JRの
ように車両に寛容ではなく、不要なものは即廃車していたらか、このマイテ49が残っただけでも奇跡的な
ことだった
のだろう。
高砂工場の先輩諸氏が「展望車の廃車はもったいないと思った」と聞かされたものだ。

さて、僕が長じて高砂工場に入ると、旅客車職場に配置になったのだけれども、その職場のイレギュラー的な
仕事に
「交通科学館の車両整備」もあった。
毎年、10月14日の鉄道記念日前の交通科学館の定休日に、何回かに分けて車両の手入れをするのだ。
それぞれの工場や職場で持ち場が決まっていて、僕らは当然、客車の整備だった。
展望車が特急列車に連結されていた時代の、重厚な3両の客車や20系の食堂車も僕らの仕事だ。
この頃になると貴重な車両の内部はなかなか見学できない・・ようになっていたけれども、鉄道記念日には
公開する
ということだった。

いずれの客車も結構痛みが激しく、特に目に見えない床材などは厳しい状況だった。
かのマイテ492も例外ではなく、根太の腐食、それ以前に根太を支える根太受けの鋼板も腐食していた。
しかし、ここにはジャッキはないし、材料の搬送も難しい・・
結局、床下から腐食した部分を切り継ぎするしかなく、「一度、工場に入場させたいな」と仲間と語り合ったことだ。

さて、そのマイテ492だが、JR西日本が誕生、その究極のイベント用として車籍を復活・・
鷹取工場に入場させて大掛かりな整備工事を行うことになった。
この時期には僕はすでに退職しており、友人のO氏による写真で入場時の姿をお目にかけよう。

工事の内容は第一は営業車両として難燃化が目的で、その次は旧式の空気調和装置が使えないことから簡単な
冷房化が主になったそうだ。
床の腐食部分をすべて整備した後、床下に鋼板を張り詰めた。
また、一般用の冷房装置の室外機を床下に設置し、室内機を区分室に取り付けたそうだ。

JR西日本には国鉄から引き継いだ「サロンカーなにわ」(バックナンバー参照ください)もあるが、やはり、本物の
展望車に実際に乗車できるのは
大きなインパクトになると考えたのだろう。その活躍ぶりは嬉しい限りだ。

ただ、僕はまだ、マイテ49には乗車していない。
いつかどこかで乗車できないかとも思うけれども、なかなか難しそうだ。
(文=こうさん)
昭和29年11月14日 大阪駅のマイテ49  たーサン撮影


  

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