上野のお山の隠された歴史

(優等車両疎開についての逸話)


自宅からほど近い上野の山。 江戸時代は徳川家の菩提寺である寛永寺の壮大な伽藍が広がっていました。
時代は下り明治になって上野の山は動物園や美術館が点在する庶民の憩いの場所として親しまれています。

江戸時代、寛永寺の本堂は現在の国立博物館付近にあったそうです。そしてその裏手には歴代の徳川将軍
のお墓が現代に残されています。
寛永寺の本堂は明治になり移転され徳川将軍家の墓を守るように現在地に有ります。

ここからのお話はその寛永寺の真下を走る京成電鉄上野線にまつわる逸話です。



時は太平洋戦争末期の昭和20年6月9日、ある日突然、京成電鉄の日暮里〜上野間が運転中止となり、京成電鉄は日暮里折り返しとなってしまいました。

6月10日以降、上野の山に何が起きたか?

3月10日の東京大空襲で壊滅的打撃を受けた鉄道も、必死の復旧作業で何とか稼動はしていたようです。
しかし4年も続いた戦争は当時としては果てしない戦いと思えたのでしょう。
東京駅前にあった国鉄本社ビルも頑丈に作られていたようですが、いつ爆撃に合うかわかりません。そこで機能を上野の山へ移しそこで列車指令を行うという計画でした。

当時の大規模な防空壕は皇居と大本営のみ。そこで鉄道省が目をつけたのは上野の山の京成電鉄のトンネルでした。しかし、トンネルだけでは仕事にはならないので列車を引き込み、車内にて執務するという案が浮上したようです。

そこで執務するとなれば電車というわけにも行かず優等列車を持ち込むことになりました。

しかし、ここで最初に疑問に思うのは、当時の京成電鉄の線路は馬車軌道と呼ばれていた1372mm、そこを1067mmの車両をどのように通したか・・・・

答えは簡単、3線軌道としたまでです。ではどこで線路を繋いだか?


長くなりましたがいよいよ本題です。
私もそうでしたが、誰しもが思う一番簡単な接続方法は常磐線と連絡させる方法です。ご覧のように常磐線と京成線は同じ高さで並行して走っています。ここにポイントを設ければ大した土木工事も不要で短期間に工事が完了したはずです。
写真H  三河島寄りの京成線と常磐線
上野寄りの京成線と常磐線
常磐線から京成線へ短絡線を設ければ簡単です。しかし、スカイライナーの最後尾を見ていただければわかりますが、ここからいきなり33パーミルの急勾配となります。そして16.5パーミルの勾配となり東北線を跨いだ後今度はトンネルに向けて40パーミルの急勾配を下るようになります。

優等車両をB6が推進して上野の山へ押し込めたと記録が残っていますが、優等車両といえば3軸ボギーのマイネクラス、40tのヘビー級車両です。
急勾配もさることながら、東北線を跨ぐ御隠殿坂橋梁もこの重量に耐えられたかどうか?
右が常磐線、左が京成線 33‰の勾配は今も昔も変わらない


このB6がマイネ38などの優等車両を1台1台運んだ?
日本工業大学に動態保存されているB6


さて、推理小説ではないので憶測はここまでにしておきます。
今回は赤門鉄路クラブの石本祐吉氏が執筆された鉄道ピクトリアル掲載の〔京成電鉄 不思議発見〕を参考にさせていただき、上野の山の秘密をたどることにしました。
石本氏の研究、調査によりますと京成電鉄と連絡していたのは京成日暮里駅と常磐線ではなく、なんと谷中墓地の崖沿いを上り、京成電鉄のトンネルの直前という大胆なものです。
京成線と常磐線の線路が並行していることを考えるとわざわざ大規模な土木工事を行う必要がある谷中墓地ルートは常識を覆すものです。

まあ何はともあれ机上の空論では仕方ない、ましてや家から歩いていける距離なので現地調査に赴きました。




写真@  鉄道省時代のものと思われるレンガ製の擁壁
現地調査を始めたところ、いきなり遺跡に出くわしました。芋坂そばにある小さな公園の反対側にある空き地がネットフェンスに囲まれています。なんとその空き地の擁壁がレンガを積んで作られており、僅かですが立派に擁壁としての機能を果たし残されていました。レンガは鉄道施設に特有な資材です。
写真A 整然と積まれたレンガ擁壁と隣接する乱雑に積まれたレンガ壁
乱雑に積み上げられたレンガを見て驚きました。どう見てもこれは不要になった擁壁を解体し、その廃材を利用して積み上げたものとしか考えられません。ということは写真@の擁壁がもっと先のほうまで続いていたと考えても可笑しくはありません。
写真B     写真@とAの位置関係
写真@は右奥のネットフェンス辺り、写真Aはクリーム色の建物の真下辺り


写真C キリスト教の墓石
キリスト教式の墓石が立っていますが、墓碑銘をみると昭和11年と記されています。先ほどのレンガ塀が有った場所より直線上に位置しています。この先、この墓石より線路側にほかの墓石は設置されていません。ということは、当時、この墓石が丁度国鉄と谷中墓地の境界であったことが推測できます。
写真D キリスト教の墓石
右奥の墓石が昭和11年の墓碑銘のある墓石です。これより鶯谷方面へ向けてなだらかな坂が続きます。このお墓は線路に背を向けているので明らかに当時はここが国鉄所有地(線路)との境界であったことを意味してるのではないでしょうか。



   

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